田中一村:露光時間と曖昧度の関係性
先日滋賀まで旅行に行った際に,田中一村展に行ってきた。
佐川美術館自体が初めてだったけど,外装からめちゃくちゃ綺麗。
屋内の通路は片側が全面ガラス張りだったりと,内側もモダンな建築設計をしていた。
カフェも入っていて良い感じの美術館なので近くにお立ち寄りの際には是非に。
さて,田中一村の絵はめちゃくちゃ綺麗だった。
自分は写実的な絵ばっかりじゃなくて,淡さのある絵に魅力を感じるっぽい。
田中一村は長い作家人生の中で画風の変化は激しかったようだ。
左:「不喰芋と蘇鐡」奄美移住後 右:「秋色」移住前 田中一村*1
左側が所謂田中一村の絵で,右側が「田中米邨」と名乗っていたまだ若い頃の田中一村の絵。
(この他にももっと雰囲気が違う絵が沢山あったけどググっても殆ど奄美の絵しか出てこない……)
若い頃から一村独特の構図は健在していたり輪郭を描かない切り絵みたいな手法が見られたりと,雰囲気こそ違えど近いところはある。
まあ自分には専門的なことは語れないので画家としての一村の話はこの辺までにしておこう。
兎に角みんな左側の奄美時代の絵の写実と幻想が入り交じるような雰囲気を高く評価しているようだ。
こっからは景色を脳に写す時間が輪郭のぼやけ具合に影響してた説。
この展示を見て,絵の中に出てくる各ターゲット(=僕らが絵を見た瞬間にこれがこの絵のメインターゲットだと思う対象以外)の曖昧度が年々下がってるように感じた。
一村に限らずの話だけど,絵って奥のほうはぼかして描くよね。
ただ彼は輪郭をぼかす場合とぼかさない場合があった。
奄美の絵は色を淡くして差別化するだけでぼかさないから,幻想的に見える。
この<幻想的>というのはつまり違和感なのだと思う。
というのも情景に霧がかかるような曖昧さが出るのは奥行きが増すときだけじゃない。
僕らが何かを目で見て記憶に残す際にはターゲット以外に霧がかかって、色々とぼかされると思う。
でも視界の色々なところをじーっと見てると輪郭もはっきり写るような気がする。
要は目の露光時間を長くするって話。
奄美時代の彼の絵は各ターゲットにかかってる霧が無くて,時間軸
をvastに切り取って一枚絵に落とし込んだ感じがするのだ。
だから彼の絵は一瞬で全体が見えるはずなのに,一瞬で見た景色のような気がしない。
そういった違和感が幻想感を生み出してるのかなって思った。
普段露光時間ってカメラでばかり意識するから,露光時間を上げれば輪郭はぼやけて曖昧度が上がるような気がする。
一方露光時間を上げればその分情報量は増すことも確かなんだけど,人類は曖昧度を上げないまま情報量を上げて記録する手段を知っていたのだと,この展示を見て気付かされた。
絵画は,画家の「ものの見え方」が想像できて面白いな。