msha_on’s blog

映画を観た感想を中心に日常の気づきを呟いていくドラえもん好きです。

海街diary:線路の向こうも空の向こうも変わらない

youtu.be

海街diaryという,四姉妹が身内の死を通して成長する映画。

こんな雰囲気の女性主体のスローテンポ映画なら「さいはてにて やさしい香りと待ちながら」もオススメ。

 

 

自分はこんな死と隣合わせの(死ぬかもしれない,ではなく死を生きながらに抱えていく)生き方をしていないから不思議な感覚を覚えた。

 

 

 

自分にとって,死は遠い所に引っ越すのと変わらない感覚で。

友達がどこかに転校しちゃってもう会えなくなるのも死同然だった。

だから悲しみのカテゴリーとしては死も転居も別れとして同じだと思った。

これはきっと死後の世界があると信じているからなのかもしれない。

あっちで元気にやってるといいな,なんて想いを馳せる様子はその<あっち>が線路の向こうでも海の向こうでも空の向こうでも変わらない。

 


<ある人>は自分にとっての<ある人>であって,それは見る人によって変わるから普遍的存在ではない。

つまり<ある人>はその人の周りの人間の数だけ存在するし,そのようにしてこの世界自体が生命の数だけ存在している。

パラレルワールドの絨毯のようになっていると考える。

だから何かを知った時,それは元々あったものを知ったというよりも,新しいものが自分の世界に取り入れられた,と感じるほうが理に適う。

このような考え方は傲慢で自分だけが全てという価値観に陥りがちな気もするが,「無知」を自覚して自分の世界に取り入れれば良い。

こうした世界では出会いも別れもその理由が死別であれ転居であれ喧嘩であれ,自分の世界から出ていくのと変わりない。

だからどっかで元気にやってればいいな,という感覚で思い出す。

 

もちろん知人の死を思い出すのは非常に胸が痛むが,それは死が事件として記憶内でカテゴライズされているからというのが大きな要因な気がする。

 

 

このように考えると自分の場合,思い出に昇華するタイミングや,この映画のように過去を赦すタイミングは自分で決めないといけない。

このようなきっかけは外的要因では得られないということになる。

 

でもこれって,他人の人生を受け入れる程のキャパシティの無さから来る考えなのかな。

死,というのはこの映画を見ても分かるように,人々の中で「関係を持った存在」から「思い出・記憶」へと昇華する儀式だ。

俺が思い出や過去を重要視出来ていないから,死を特別に考えられていなかったのかな。

 

自分もいつかきっと,笑って送り出す飲み会のような「送別会」と,お堅い「葬式」とを別に理解しないといけなくなるんだろう。

じゃないとその後の「◯回忌」やお参りとか俺する意味ないもん。